九州歴史資料館|Kyushu Historical Museum

大宰府の歴史

大宰府は奈良・平安時代において、外交や軍事を主な職務とし、当時「西海道」とよばれた古代の九州を治めた役所でした。 この大宰府の中心施設は、福岡県太宰府市を中心とする地域に置かれ、現在は史跡として保存されています。 大宰府政庁跡、水城跡、大野城跡、基肄城跡(きいじょうあと)、観世音寺、筑前国分寺などがあり、福岡県筑紫野市・春日市・大野城市・太宰府市・筑紫野市・宇美町など広域に広がっていることから大宰府史跡と総称しています。
九州歴史資料館では、昭和43年(1968)に開始された、大宰府史跡の発掘調査・研究を継続的に進めています。 ここでは、発掘調査によって、明らかになった大宰府史跡の各施設について紹介します。
なお、平成26年度から27年度は水城・大野城・基肄城が築造されて1350年の節目にあたります。 この節目の年に古代山城が所在する自治体で「水城・大野城・基肄城築城1350年実行委員会」を組織して様々なイベントや取り組みを行う予定です。

大宰府政庁跡

(特別史跡大宰府跡の一部 昭和28年3月特別史跡指定 福岡県太宰府市)

大宰府の中心となる建物であり、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそつ)が政治や儀礼を行うための場所でした。 奈良の平城宮の配置を手本とした、左右対称形となる瓦葺きの礎石建物で、築地や回廊に囲まれた南北215.45m、東西約119.20mの規模となります。 発掘調査では、大きく3時期の建物の変遷が明らかになっています。 最も古いⅠ期は飛鳥時代の掘立柱建物、Ⅱ期は瓦葺き礎石建物で奈良時代の初め頃に建替えられました。 地表に残るⅢ期の礎石建物は、平安時代に藤原純友の乱(941年)で焼かれた後に再建されたものです。 現在は、発掘調査成果に基づいて平面復元され、史跡公園として広く市民に開放されています。

政庁跡空撮 中門(第1次調査) 政庁模型
▲政庁跡空撮 ▲中門(1次調査) ▲政庁模型(Ⅲ期)

特別史跡水城跡

(昭和28年3月特別史跡指定  福岡県太宰府市・大野城市・春日市)

『日本書紀』によれば、西暦664年に「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う」とあります。 百済国復興のために朝鮮半島に援軍を派遣した倭(日本)が、唐・新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」(663年)の翌年に築きました。 福岡から太宰府へ向かう際、平野が最も狭くなる地点に約1.2㎞の土塁を築いて、博多側の外濠には水を貯えていました。 土塁の東西には門が置かれ、西門には古代の迎賓館である筑紫館(鴻臚館)(つくしのむろづみ・こうろかん)から続く官道が通っていたことが発掘調査によって明らかになっています。 さらに、西側には、尾根線を塞ぐように上大利・大土居・天神山などの小水城が築かれており、広範囲に亘って敵に備えたことが分かります。 現在は、市民の身近な緑地帯として憩いの場となっています。

水城全景 水城西門(26次調査) 水城木樋
▲水城跡全景空撮(東側より) ▲西門(26次調査) ▲木樋(5次調査)

特別史跡大野城跡

(昭和28年3月特別史跡指定 福岡県太宰府市・大野城市・宇美町)

『日本書紀』は、水城築造の翌年に百済の高官である憶礼福留(おくらいふくる)・四比福夫(しひふくぶ)の指導によって大野城や基肄城が築かれたことを伝えています。 大野城跡は、大宰府政庁跡の背後にあたる四王寺山(標高410m)に築かれた古代の山城です。 北に深い谷を持つ独立的な山塊であり、尾根線には土塁、谷部には石塁をそれぞれ築いて約8kmの城壁を巡らせています。 現在、9カ所の城門が確認されており、このうち南側にある太宰府口城門跡には、現在も水ノ手口石塁と共に門の礎石が残されています。 また北側の宇美口城門跡には、百間石垣があり、長さ約180mの高い石塁を築いています。 城内には、70棟を超える倉庫とみられる礎石建物跡が確認されています。 現地には遊歩道が整備されており、石垣や土塁、礎石建物跡など、当時の遺構を間近にみることができます。

大野城全景 太宰府口西門(26次調査) 百閒石垣
▲大野城跡全景空撮 ▲太宰府口城門 ▲百間石垣

特別史跡基肄城跡

(昭和29年3月特別史跡指定 福岡県筑紫野市・佐賀県基山町)

基肄城は、大野城と共に築かれた古代山城です。 『日本書紀』には「椽城(きのき)」の名で登場します。 大宰府政庁の約8㎞南方に位置し、大野城とは南北に対峙する形をとっています。 脊振山系に連なる基山(標高404m)東側の深い谷を取り囲む形で約3.9kmの土塁や石塁から成る城壁を巡らせています。 基肄城の東には関屋土塁・とうれぎ土塁が築かれており、これらの城壁と共に南からの敵に備えたことが分かります。 城南端の谷部には長さ約26m、高さ8.5mの石塁が築かれており、その中には幅1m、高さ1.4mの巨大な水門跡があります。 城内には倉庫とみられる礎石建物跡が残されていますが、その中には「大礎石群」とよばれる10×3間(長さ29.4m×幅9m)の大きな礎石建物もあります。 現在は、土塁線を中心に散策することができます。

基肄城全景 基肄城水門跡 基肄城大礎石群
▲基肄城跡全景空撮 ▲水門跡 ▲大礎石群

観世音寺

(観世音寺境内及び子院跡附老司瓦窯跡 昭和45年9月国指定史跡 福岡県太宰府市)

かつて、「府の大寺(ふのおおでら)」と呼ばれた西海道を代表する古代寺院です。 西暦661年、筑紫の朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)で急逝した斉明天皇を追善するために天智天皇によって発願され、天平18年(746)に落慶供養を迎え最終的な完成をみました。 そして、天平宝字5年(761)には、僧尼に戒律を授ける戒壇院(かいだんいん)が置かれ、東大寺、下野薬師寺と共に天下の三戒壇となりました。 観世音寺は東に五重塔、西に東面する金堂、中央の北に講堂を配し、その背後には大房がありました。 このような伽藍配置を「観世音寺式」と呼んでいます。 境内には、往時を偲ばせる塔跡の心礎、講堂周辺の礎石、さらには国宝の梵鐘などがあります。なお、講堂や金堂は江戸時代に再建されたものです。

観世音寺金堂 観世音寺塔跡 観世音寺
▲観世音寺講堂 ▲塔跡 ▲観世音寺梵鐘(国宝)

筑前国分寺跡

(大正11年10月国指定史跡 福岡県太宰府市)

聖武天皇の天平13年(741)の詔(国分寺造営の詔)により、諸国に置かれた国分寺の一つで、大宰府政庁西方の丘陵上に位置しています。 創建を記した具体的な記録は見られませんが、調査によって、寺域は約192m四方に及び、伽藍の中央北側に金堂、その背後に講堂、さらに伽藍東には七重塔が配置されていたことが分かっています。 塔跡の発掘調査では、心礎をはじめ、4つの礎石はほぼ原位置を保っていることが明らかとなりました。 現在、塔跡・講堂跡・回廊の一部が復元整備され、七重塔の1/10模型は寺近くの太宰府市文化ふれあい館にあり、どちらも自由に見学することができます。 なお、この寺の東北200mに位置する国分瓦窯跡も同じ時に国指定史跡となっています。

筑前国分寺跡
▲筑前国分寺跡

学校院跡

(昭和45年9月国指定史跡 福岡県太宰府市)

学校院は、「府学校」とも呼ばれ、天応元年(781)の太政官符によれば、管内六国から200人程度の学生が学んでいたことが窺えます。 また、寛仁5(治安元)年(1021)には、観世音寺との境界地争いに関する記録が見られ、『観世音寺資財帳』などからも観世音寺の西側にあったことが分かっています。 調査では、8世紀後半以降の掘立柱建物跡をはじめ、観世音寺との境界と考えられる南北溝や築地跡などが確認されています。 この学校院跡からは、基壇の装飾のために使用された文様塼(せん)が多く出土しています。正方形や長方形、三角形などがあり、水面に浮かぶ華の文様を施しています。

学校院跡
▲学校院跡
三角塼 四角塼 塼の組み合わせ
▲三角塼 ▲長方形塼 ▲塼の組み合わせ例

阿志岐山城跡

(平成23年9月国指定史跡 福岡県筑紫野市)

大野城跡の東南に位置する古代山城で、平成11年(1999)に発見されました。 宮地岳(標高388m)の北西の尾根線付近には土塁を、谷部には石塁を築いています。 ただし、この城壁は北側の尾根線を中心に1.34㎞に亘って認められますが、筑紫平野を望む南側は途中で切れています。 谷部に積まれた石塁は、丁寧に加工した切石を使用しています。 万葉歌に詠まれた「蘆城駅家(あしきのうまや)」が近くに想定されており、官道との関わりも考えられています。城の立地や機能について、謎の多い古代山城の一つです。

宮地岳
▲宮地岳(阿志岐山城跡)空撮(北側より)
(筑紫野市教育委員会 提供)

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